「自分の内の世界や、目に見えない世界と走る日々や、コミュニティのことや、をぐるっとひとまわり過ぎて、今がある感じで。 今はようやく普通の日々の中、夫婦ふたりで静かに祈りながら農民をして、絵地図を描きながら暮らしている。 なんかこう、そういったことが静かに深まっていくにつれ、口が人に話すことができなくなってきた…。 うまく話せなくなって初めて、社会には、何も話さないけれど、静かに祈りながら暮らしている人は、すごくたくさんいるのかもしれないって思えるようになった。」

出会ってひと月も経たないのに、ずっと前から知っていたかのような親しみのある人と、ランチへ行った。 彼女の指定のお店は友人がやっているという菜食カフェ、「ブルー藍」。 一見ぶっきらぼうだけど、快活で気さくな女主人が作る手作りのビュッフェ料理はどれも絶品でヘルシー、常連のお客さんが次々と入れ替わり立ち代りする繁盛店だった。...

何も考えないで、手が勝手に動くのを、待つということ。 動きだしたらそれを邪魔しないよう、息を殺して、見守るということ。 線が生き物のようにうごめいて、カタチになって、イロになって、紙のうえにとどまるのを、最初から最後まで私は、物影からそれをそっと隠れて見るような気持ちで。

私の住んでいる岐阜県では遙か昔からの言い伝えで、静かに凪いだ池を囲んでみんなで瞑想をする「日抱きの御魂鎮め」という風習があった。 凪いだ水面には太陽の光が映り、それをみんなで抱くようにして、自分のなかの光を見つめるのだという。

約20年前の話。 友人が中学生のころ、理科の授業でこんなクイズが出たそうな。 「この世界のほとんどは原子が集まってできています。でもあるものだけは何でできているか分かっていません。それは何でしょう?」 ※うろ覚えであることかつ、20年前の情報なのであしからず 数人の生徒の答え「火!」「光!」 先生「はい、正解!!」...

午前中、岩手で復興支援を含めた社会活動をしている、尊敬する友人2人と、スカイプで話した。 塩害のあった地域に塩を吸収してくれる菜の花を植えて、かつその菜種油を商品として売ることでさらなる支援につなげる。 菜の花畑には「ノアの箱船」と名付けられたエコハウスも建っている。...

「“これまで”が”これから”を決めるのではなく、”これから”が”これまで”を決める。」 あるインタビュー記事にこのことばが書かれていました。 このことば、とても気になる。

「やっと、こうすることができた」 と、よく分からないけれど。 自分の中の自分が心の中でそうつぶやいて、ホッとしていた。

世界はよろこびに満ちている。 存在するものすべてが、それそのもののもつ美しさをあらわすならば。 この世界は完璧にまわり始めるだろう。

世界を肯定することで、世界も私を肯定してくれるような。 言葉もなく頷きあうような、鏡が光を反射するような。 小さなもので箱庭を作るとき、枯れ枝や小石や種といった小さなかけらからこそ、大きな世界がよく見える場合がある。 そのとき私もその一部になって、すべてと調和されているのを感じます。